クロアチアの歴史まとめ

 
クロアチアは、歴史的に、大国がぶつかり合う境目になってしまうことが多く、ものすごい波乱万丈な、超絶ドラマチックな過去を持っているのです!

先史時代

クロアチア(特に北部)は非常に古くから人類の居住が始まった地域で、古くは旧石器時代のネアンデルタール人の残した遺物も発見されています。
旧石器時代のネアンデルタール人の遺跡としてクロアチアで最も有名なのは、首都ザグレブから車で 1 時間ほど北上したところにあるクラピナ(Krapina)。

 
クラピナにはクラピナ・ネアンデルタール博物館もありますよ!
ちなみに、最近の研究によると、当時クロアチアにいたネアンデルタール人は肌の色が濃く、髪は茶色だったみたいです

新石器時代、青銅器時代になると、北部に限らず、現在のクロアチアの全域に人類が定住するようになり、各地で様々な遺跡や遺物が出土しています。
青銅器時代にはスタルチェヴォ文化、ヴチェドル文化、バデン文化などが北部から広まり、鉄器時代に向けてイリュリア系ハルシュタット文化、そしてラ・テーヌ文化と徐々に発展を遂げました。

 
クロアチアでは、7200 年前の世界最古クラスのチーズ作りの痕跡も出土しています。
クロアチアのチーズ愛は歴史的なものだったんですね…!
 

ギリシャにおける古典時代あたりに向けて、クロアチアは広くリブルニア系とイリュリア系の人々が根づき、ヴィス島やフヴァル島などアドリア海沿岸の島々には古代ギリシャの植民地もできました。
現在のダルマチア地方は後の一時期、イリュリア王国の一部になりました。

 
クロアチアでは、古代ギリシャ時代にワインやオリーブオイルの生産が始まっています。
大きな植民地のあったフヴァル島には、古代ギリシャ時代から継続して農業が続けられてきた『スタリ・グラド平原』がその歴史的価値を理由にユネスコ世界遺産に登録されています!

ローマ時代

紀元前 229 年、共和政ローマとイリュリア王国の間でイリュリア戦争が勃発。
これをきっかけとして、クロアチアのアドリア海沿岸地域は徐々に共和制ローマに組み込まれていき、後に公式にイリュリクム属州となりました。

イリュリクム属州

 
イリュリクム属州としてローマに組み込まれたものの、組み込まれた方の人々はこれが気に食わなかった模様。
現在のクロアチアやセルビアあたりの人々は度々反乱を起こし、ローマを困らせました

ローマが共和政から帝国へと変化し、五賢帝の時代を迎えた頃、今のクロアチアあたりはダルマチア属州とパンノニア属州に分割されました。

 
ローマ帝国広いですね〜。
ちなみに緑:ローマの版図、黄色:ダルマチア属州、オレンジ:パンノニア属州 です。

さて、時は変わって西暦 284 年。
ダルマチア属州のサロナ(現在のクロアチア、ダルマチア地方のソリン。スプリットのすぐ近く)出身の軍人さんがぐんぐんのしあがり、最終的には皇帝、ガイウス・アウレリウス・ウァレリウス・ディオクレティアヌス帝となりました。

当時ローマ帝国は『3 世紀の危機』と呼ばれる混迷の時代にありましたがこれを収め、大胆な政治改革を行って国の安定化に努めました。
ディオクレティアヌス帝は自発的に譲位した最初のローマ皇帝で、譲位後は出身地近くのスプリットに建設した宮殿で引退生活を送りました。
この時の宮殿が今のスプリット旧市街で、出身地のサロナ(ソリン)からスプリットにかけて、この時代の遺跡が多く出土しています(が、全体像は全くと言っていいほど未解明)。

 
スプリットやサロナではありませんが、ネレトヴァ川の流域でも、数年前に、ローマ帝国ダルマチア属州時代の彫刻の頭が家畜小屋の地下からゴロンと出てくるという衝撃的な出来事がありました。
調べたところ、そもそも家畜小屋の壁の一部がローマ時代の貴族のお屋敷の壁の一部をそのまま流用していたことが判明。
今はそこは整備されて博物館になっていますが、近所の人によると「この辺、家の塀とか壁とかが明らかにローマ時代のものっぽいとこ他にもあるよ。石がキレイに四角いし文字刻まれてるからね」とか言ってました。
頼むから調査してほしい

ナロナ考古学博物館。
この壁はローマ時代のものらしいですが、気づかれずに家畜小屋になっていた…!!

ローマ時代の終焉と民族大移動

西暦 476 年に西ローマ帝国が崩壊してから、現在のクロアチアあたりも民族大移動の影響を強く受ける時代に入ります。
クロアチアにはまず東ゴート族が流入してきて 530 年あたりまで勢力を奮っていましたが、東ゴート王国の内紛に乗じてビザンツ帝国(東ローマ帝国)のユスティニアヌス帝の軍隊が侵攻してきます。
結果、535 年にクロアチアの大部分はビザンツ帝国に併合され、後にビザンツ帝国のテマ・ダルマティアス(ダルマチア軍管区)が置かれることとなりました。

しかし、このまま長く安定が続いたかというとそんなこともなく、今度はアヴァール人とスラヴ系のクロアト(クロアチア人、クロアチア語では『フルヴァット(Hrvat)』)が侵入してきて暴れまわり、ローマ系の街は徹底的に破壊し尽くされるという憂き目に…!
この破壊行為は 200 年くらいの期間断続的に発生し続けてきたようで、この間に、それまでここに住んでいた人に代わって、クロアチア人がこの地域の主要民族となりました。

その一方、ダルマチアの南の端の方にある今のドゥブロヴニクは『ドゥブロヴニク共和国(イタリア名『ラグサ共和国』)』として独立を果たし、その後はクロアチアの他の地域とは異なる、独自の歴史を進んでいくことになります。

 
ドゥブロヴニクはこの後 1800 年代まで実質的に独立国家として機能していくことになるので、ドゥブロヴニクの人は「自分達はクロアチア人だけど基本はドゥブロヴニク人」と思っている事が多いです。
文化や考え方も結構違うので、クロアチアの他の地域の人からも「あいつらは違う」と言われがち

クロアチア公爵領とクロアチア王国

ビザンツ帝国の目がアラブ・ビザンツ戦争で東に向く中で、急激に西ヨーロッパに勢力を拡大したフランク王国。
この 2 国の境目で揉まれるクロアチアは、紆余曲折の結果、818 年に、フランク王国の公爵領としての地位を確立することになります。
この時クロアチア公爵となったのはボルナ(Borna)、領土はダルマチアの北部でした。

しかしボルナから 2 代後の公爵ミスラヴ(Mislav)の時代から、クロアチア公爵領はフランク王を君主とする仕組みから外れていくことになります。

この頃、クロアチアのアドリア海沿岸では海賊が猛威を奮っており、特にネレトヴァ川辺りに住んでいたナレンティン族はイタリアのヴェネツィア共和国の天敵のような存在でした。
これに業を煮やしたヴェネツィア共和国のドージェ(元首)ピエトロ・トラドニコがクロアチア公爵領に攻撃をしかけてきます。

この時は迅速に平和条約が結ばれましたが、ヴェネツィアのナレンティンへの怒りは収まらず、早くも翌年にヴェネツィアは今度はナレンティンを狙い撃ちに!!
…しかし、あろうことかナレンティンの海賊達は首尾よく時の大国、ヴェネツィアを撃破するという衝撃的な形で決着する事になりました。

 
ネレトヴァ川河口デルタ辺りや、ミスラヴ公爵のお城に近いオーミシュ辺りには、今でもこの『うちの祖先はあのヴェネツィアをやっつけた海賊なんだぜ!!』と自慢する人が結構います。
ネレトヴァ川では、当時の海賊も使っていたという『ラジャ(lađa)』という独特の木の葉型の浅い小型手こぎボートでレガッタのように競争をする大会、ラジャ・マラトンが行われています!

ネレトヴァ川河口デルタ

そんなエキサイティングな海賊絡みのエピソードの多い公爵領時代ですが、何度かの内紛や戦争を経た後の西暦 925 年、クロアチアはついにクロアチア王国として独立を果たします。
初代クロアチア王は、4 代目クロアチア公爵トゥルピミルの直系、トゥルピミロヴィッチ(Trpimirović)家のトミスラヴ王。

トミスラヴ王時代、クロアチアはその領土を拡大し、ダルマチアだけでなくパンノニアや、現在のボスニア・ヘルツェゴヴィナの一部まで含む形に発展します。

西暦 1000 年頃のクロアチア王国の領土

クロアチア王国の領土が最大となったのは クレシミル 4 世(治世 1059 〜 1075)の治世のこと。
このため、クレシミル 4 世は『偉大なるペタル・クレシミル 4 世(Petar Krešimir IV. Veliki)』と呼ばれています。

クレシミル 4 世には息子がいなかったため、後継者にはスラヴォニアのバン(首長)だったズヴォニミル(Zvonimir)が選ばれました。

 
ズヴォニミルの出自の詳細は不明なのですが、第 7 代クロアチア王スヴェトスラヴ(Svetoslav)の子孫だったのではないかと言われています。
※参照:Neven Budak「Prva Stoljeca Hrvatske
 

ズヴォニミル王にも息子がいなかったため、王位は亡きクレシミル 4 世の兄弟、スティェパン(Stjepan)2 世に引き継がれます。
しかしこの時すでにスティェパン王は高齢だった上に長患いで弱っていて、3 年後に後継を残さず亡くなってしまいます。
これにより、クロアチア王国のトゥルピミロヴィッチ王朝は終焉を迎えました。

ハンガリー王国、ヴェネツィア共和国、ハプスブルク帝国の統治

ハンガリー王国アールパード朝

断絶したトゥルピミロヴィッチ王朝の後にクロアチアの統治を引き継いだのはハンガリー王国アールパード朝。
ズヴォニミル王を通じて姻戚関係にあった(※ズヴォニミル王の奥さんがハンガリー王国の王女)ことを理由に、人的同君連合(※1 人の王が複数の国の王を兼務する状態で、国家としてはそれぞれ別国扱い)を構成した、という形です。

クロアチアはその後約 4 世紀にわたり、ハンガリー王を君主に戴き、実際の統治は主にサボル(Sabor)と呼ばれる議会と、バン(Ban)と呼ばれる首長ないし総督が行うことになります。

 
この時代に十字軍が始まり、クロアチアは十字軍遠征の通り道にあるので、当然のようにいろいろな形で巻き込まれました。

特に大きな事件としては…

1) 第 3 回十字軍:イングランドのリチャード 1 世(リチャード獅子心王)がドゥブロヴニク沖で難破。
ドゥブロヴニク旧市街の港を出てすぐのところにあるロクルム島に漂着し、助けてもらったお礼に多額の寄付 → 旧市街にあるドゥブロヴニク大聖堂(聖母被昇天大聖堂)の建築費用になった

2)第 4 回十字軍:
エルサレムに行く代わりに「イスラムの本拠地だから」とエジプト攻撃を目指すも、資金不足に陥り、なんと味方のはずのハンガリー王国ザラ(今のクロアチアのザダル)を襲撃して略奪。
激怒した教皇に十字軍が破門されるという展開に。
ちなみに破門が解かれた後、十字軍はビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルにまで出向いてこれを陥落し、略奪、殺戮、強姦など悪逆非道の限りを尽くし、同じキリスト教国のビザンツ帝国を弱体化させ、後のオスマン帝国による東ヨーロッパ支配の基礎を作った。
とにかく色々ひどい

 

1200 年代の中頃になると、ハンガリー王国はモンゴル帝国の侵略の猛威にさらされることになります。
1241 年の「モヒの戦い」または「シャイオ河畔の戦い」では、ハンガリー王ベーラ 4 世率いるハンガリー軍がモンゴル軍に大敗を喫し、ベーラ 4 世はクロアチアのダルマチアを転々と逃げ回ることに。

この時、当然ながら、逃げ回る → モンゴル軍追っかけてくる → クロアチアも広い範囲でモンゴル軍の襲撃にさらされる、ということになりました。

 
クロアチアの首都ザグレブ郊外の山の上にあるメドヴェドグラド(Medvedgrad)要塞は、モンゴル軍の襲撃でザグレブが壊滅状態になった後に、再度の襲来に備えて建設されました。
近世に入ってからずっと放置されて荒れていましたが、2021 年に修復がほぼ終わって一般公開が始まったので見に行くといいですよ。
ザグレブを一望できて気持ちよいですし、中世祭りみたいなイベントもありますよ!

ベーラ 4 世は最終的に、しっかりした要塞のあったダルマチアのトロギール(Trogir)に逃げ込み事なきを得たのですが、感謝の印にスプリット近辺の土地をどーん!とトロギールにプレゼントしてしまい、怒ったスプリットとトロギールの仲が悪くなりました

※参照: メドヴェドニツァ(※メドヴェドグラドがある山)国立公園公式サイト:「Medvedgrad
 

モンゴル帝国の襲撃によりハンガリーもクロアチアもひどい状態になったものの、モンゴル軍撤退までハンガリー王をかくまう形になったクロアチアの貴族は、後々お礼として様々な恩恵を授かります。
そしてこれがシュビッチ(Šubić)家やフランコパン(Frankopan)家を始めとする、「クロアチア 12 貴族(Plemstvo dvanaestero plemena kraljevine Hrvatske)」の興隆につながりました。

※参照:「Analiza enciklopedičke relevantnosti na primjeru hrvatske tehničke baštine

ハンガリー王国アンジュー朝

1301 年、ハンガリーのアールパード朝最後の王、アンドラーシュ 3 世が後継を残さず没し、紆余曲折あったものの、最終的に女系を通じて親戚関係にあったフランス王家カペー家の支流で、イタリアのナポリ王国の王家だったアンジュー=シチリア家のカーロイ・ローベルト(カルロ・ロベルト)がハンガリー王位につき、アンジュー朝が創設されます。

このカーロイ 1 世はハンガリーの中央集権と安定に力をいれたのですが、その一環として、当時クロアチアのバンだったムラーデン・シュビッチとダルマチア地方の貴族達との争いでダルマチア貴族を支援し、シュビッチ家を撃破。
これによって生まれた権力の空白を埋める形になったのが当時『アドリア海の覇者』と呼ばれたヴェネツィア共和国です。

その後しばらく獲ったり獲られたりは続くものの、最終的には、ドゥブロヴニク共和国の領土を除くダルマチアのほとんどをヴェネツィア共和国が支配する形に落ち着きました。

 
ヴェネツィア共和国にとって、ドゥブロヴニク共和国はまさに目の上のたんこぶ的存在。
ドゥブロヴニク共和国は領土こそそんなに大きくないものの、とにかく商売上手、交渉上手で、あの手この手を使って 1800 年代までしぶとく生き残っていきました
 
フヴァル島に残る「ヴェネツィアの獅子」のレリーフ。
戦わずに投降した場合はライオンが持っている本が開いているはずなのですが、フヴァルでは島民がものすごく反抗したため本が閉じているバージョンもある(なお閉じた本を持つ獅子は世界的にも超レア。フヴァルに行ったら探してみてね)

 
この頃からヨーロッパにおいて黒死病(ペスト)の大流行が始まり、なんと当時の人口の 3 分の 1 から 3 分の 2 が死亡するという凄まじいパンデミックになりました。

クロアチアでも大変な数の死者が出たのですが、唯一の例外となったのがドゥブロヴニク共和国。
ドゥブロヴニクでは、数度の小規模な流行があった後の 1377 年に政府が世界初の大規模な検疫システムを導入し、それ以降黒死病の発生を抑え込むことに成功しています。
英語で検疫を意味する「quarantine」という単語の語源は、この時のドゥブロヴニクの検疫システムなのです!

※参照: Zlata Blazina Tomic, Vesna Blazina「Expelling the Plague
 

オスマン帝国の侵攻

1300 年代の半ば頃から、オスマン帝国のヨーロッパ侵攻が始まり、ブルガリア、セルビア、アルバニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ辺りを皮切りに、東ヨーロッパの広い範囲がオスマン帝国に併合されるか、またはオスマン帝国の従属国家となることを受け入れることになりました。

クロアチアでは 1493 年の『クルバヴァの戦い』から 1593 年の『シサックの戦い』まで続く『クロアチアーオスマン戦争』と呼ばれる 100 年戦争に突入します。

 
独自の道を歩むドゥブロヴニク共和国は、早々に中立を宣言しており、オスマン帝国に対しては形の上で従属し、大金を払うかわりに貿易と自治を認めさせるという、頭がよいというか、地元の人も「まあ、ドゥブロヴニクはちゃっかりしてるから」という対策を取って戦いを回避しました。

ちなみにこれは完全に計算としてやっていたことなので、オスマン帝国への忠誠心などはもちろんこれっぽっちもなく、オスマン帝国に従属していると言いながらヨーロッパ各国とも同盟を結び、二重スパイ的な活動もして、どっちからも「食えない奴め」と思われていたようです!

参照:Robin Harris「Dubrovnik: A History
 

この期間中の 1526 年、ハンガリー王ラヨシュ 2 世とオスマン帝国スレイマン 1 世が『モハーチの戦い』でぶつかり、ハンガリーは大敗。
ラヨシュ 2 世も戦死してしまい、王家もそこで断絶してしまったため、ここで姻戚関係にあったオーストリア大公ハプスブルク家がハンガリー王の座につきます。

ただしこれは皆納得の人選ではなく、その後王座をめぐる争いの禍根を残すことになりました。

クロアチア(のわずかに残った部分、『ostatci ostataka nekoć velikoga i slavnoga kraljevstva Hrvatskoga:かつて偉大だったクロアチアの王国の生き残りの残り』)については、1527 にハプスブルク家の臣下となります。
しかしこの時にはすでに極端に弱体化が進んでおり、領土のかなりの部分を軍政国境地帯とすることを受け入れざるをえなくなりました。

1680 年代のオスマン帝国の版図。
色が一番濃いところはオスマン帝国、ちょっと濃いところは従属国

クロアチアの大部分は飲み込まれていますが、ダルマチアはヴェネツィア配下だったので無事(攻撃は受けていましたが)。
ドゥブロヴニクは早々に「いっぱいお金払って従属国のステータスも受け入れるんで、貿易と自治は許してね」と交渉して実質見逃してもらっています。

 
クロアチアの話ではないですが、この当時のバルカン半島の有様についての理解を深めることができる書物として、今のボスニア・ヘルツェゴヴィナにあたる地域出身でノーベル文学賞を受賞した作家、イヴォ・アンドリッチの「ドリナの橋」おすすめします。

オスマン帝国には『デヴシルメ制度』という、侵略した地域の子ども達を徴収してオスマン帝国に連れ帰ってイスラム教徒として育て、スルタン直属の奴隷部隊や官僚などにする制度がありました。
この制度によってボスニア・ヘルツェゴヴィナから連れ去られ、オスマン帝国で大宰相にまで登りつめたソコルル・メフメト・パシャが故郷ヴィシェグラドにかけた橋を舞台に、数百年の歴史がその時々の人物に焦点を当てた短編的なエピソードで綴られています。

このソコルル・メフメト・パシャ橋は現存していて、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ 2 例目の世界遺産になっています。

オスマン帝国の衰退とヨーロッパからの撤退

オスマン帝国はスレイマン 1 世の治世を最盛期として徐々に衰退期に移っていきますが、ヨーロッパにおける支配はその後もしばらく続きました。

状況が大きく変わったのは 1683 年のオスマン帝国による第二次ウィーン包囲の失敗あたりから。
ここから 1699 年までのいわゆる『大トルコ戦争』でヨーロッパ側がついにオスマン帝国の撃退に成功し、クロアチアの大部分の領土も奪還することができました。

クロアチアの北部がハプスブルク家の臣下として足元を固めていく反面、ダルマチアを支配していたヴェネツィア共和国の方はオスマン帝国との戦いで弱体化し、1796 年にはついに滅亡してしまいます。
ヴェネツィア共和国の衰退により生まれた権力の空白地帯を狙って対立したのがフランス帝国(フランス第一帝政)とハプスブルク帝国。

この対立では一時期フランス帝国が優勢になったものの、フランス帝国があっさり没落してしまったため、結局はハプスブルク帝国の領土になる、という結果になりました。

 
独自路線を歩み続けて、オスマン帝国の脅威はうまく乗り切ったドゥブロヴニク共和国は、ここへ来て自然災害の脅威の前に膝を屈することとなりました。
1667 年、大地震により旧市街の大部分が倒壊・焼失するという未曾有の大惨事に襲われたドゥブロヴニク共和国はちょうどこの辺りを最盛期として、二度と元の栄光を取り戻すことはなく、100 年ほどかけてゆっくりと衰退していったのです。

そして 1805 年、アウステルリッツの戦いの結果、フランス帝国とロシア帝国がドゥブロヴニク近郊のコトル湾でにらみ合う形になった中、「通るだけ、何もしないよ」と言うフランス軍の通行を許可したらそのまま乗っ取られてしまい、1808 年には滅亡を宣告されるという結果になりました。

権謀術数に長けることを自負としてきたドゥブロヴニク共和国にとって、これは耐え難い屈辱だったようで、地元の人は未だに「フランス人は信用ならねえ」みたいなことを言っています。

なお、短期間ながらフランス帝国がダルマチアを征服し、ドゥブロヴニク共和国を滅亡させた時の軍隊を率いていたのはナポレオンの腹心と言われたオーギュスト・マルモン。
この方は最終的にギリギリのところでナポレオンを裏切った人でもあるので、ダルマチアでもフランスでも不人気

1800 年代のクロアチア。
ケルンテン公国、ダルマチア王国、クロアチア=スラヴォニア王国のハプスブルク帝国構成国 3 国がほぼ今のクロアチアの領土にかぶる感じ

世界大戦

第一次世界大戦とハプスブルク帝国の瓦解、ユーゴスラヴィア王国の建国と崩壊

1914 年に開戦した第一次世界大戦により、ハプスブルク帝国は滅亡し、分割されることになります。
ここまで見てきたように、クロアチアはダルマチアを除いてハンガリーだった時代がかなり長いのですが、ハンガリーの一部として認められることはなく、クロアチアとしての独立も認められず、『南(ユーゴ)スラヴ』というくくりでまとめられることになりました。

1918 年、『セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国』が発足しますが、これは国際社会の承認を得ることなく、1 ヶ月あまりで、モンテネグロ王国とセルビア王国に吸収されるような形で『セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国』が樹立されました。

 
第一次世界大戦前から、イタリアはハプスブルク帝国との間に領土問題を抱えていました。
イタリアの視点では、ヴェネツィア共和国の領土だった部分は本来イタリアのもの、と考えられていたので、イタリアはオーストリアの同盟国でありながら第一次世界大戦では中立を保ったのです。

終戦後のパリ講和会議ではこのイタリアの主張はほとんど認められず、イストラもダルマチアもこの『セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国』に入ってしまいました。
これに納得できなかったイタリアはダルマチアへの武力侵攻を試み、1920 年に締結されたラパッロ条約でイストラやダルマチアの島々の一部を手に入れました。

ただ、民族としては共通点の多い南スラヴ人の連合王国とは言っても、ここまで見てきた通り、この連合王国を構成する各国は歴史や宗教など様々な点で非常に大きな違いがあります。
しかも他の大帝国の都合により人が動かされたり、境界線を引かれたりする中で、「南スラヴ」の一体感は実質的に失われていた(むしろそもそも存在していないのかもしれない)ため、この王国は最初から波乱続きでした。

そして、波乱続きというか、混乱しか存在しないくらいの状態でありながら、『セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国』ではセルビア王国を中心とする中央集権の仕組み作りが進んでいきます。

1929 年、セルビアのカラジョルジェヴィッチ王家のアレクサンダル 1 世が政党の活動を禁止し、国号を『ユーゴスラヴィア王国』に改めて独裁政権を開始。
当然国内は更に大荒れになり、特にクロアチアはこれに猛反発します。

結局、1934 年にアレクサンダル 1 世は外遊先のフランスで暗殺されてしまいます。
その後も民族間、特にセルビアとクロアチアの間の緊張はますます高まり、更に当時の世界で台頭しつつあったファシズムの影響も受け、事態は悪化の一途をたどっていきました。

そして 1939 年、クロアチアの要求を受け、ユーゴスラヴィア王国内にクロアチア自治州が誕生。
しかし、この境界線はクロアチア側にもセルビア側にも納得がいくものにはならず、双方の民族主義的感情を刺激し、対立を深める結果となりました。

濃い緑がユーゴスラヴィア王国、黄色がクロアチア自治州

第二次世界大戦の勃発とユーゴスラヴィア王国の滅亡

1940 年、第二次世界大戦が勃発すると、ユーゴスラヴィア王国はギリシャ以外の全方向を枢軸国(日独伊三国同盟加盟国)に囲まれた状態になります。
そこで一度枢軸国側と協定を結ぶものの、これに国民が大反発し、結局連合国軍側のイギリスの支援を受けたクーデターが発生し、時の政権は倒されることに。

これで連合国(イギリス)の支援が得られる…と思いきや、連合国側にもそんな余裕はなく、1941 年、ユーゴスラヴィア王国は枢軸国に侵略され、分割される形で崩壊してしまいました。
なお、ユーゴスラヴィア王家カラジョルジェヴィッチ家は、同年イギリスのロンドンに亡命し、ロンドンに亡命政府を樹立しました。

ファシズムの台頭と民族闘争の幕開け

分割されたユーゴスラヴィア王国には、ドイツ、イタリア、ハンガリーいずれかに強制編入された地域、直接統治された地域、傀儡政権が樹立された地域ができました。
クロアチアには、ドイツの傀儡政権が一党独裁を行う『クロアチア独立国』が作られました。

この時に政権を担当していたのが、悪名高い極右のファシスト政権、ウスタシャ(Ustaše)です。

ウスタシャは民族的に純粋なクロアチアを作ることに執着していて、クロアチアの宗教であるカソリックではなくセルビア正教の信徒であるセルビア人をこの目的の障害とみなしていました。
また彼らはドイツのホロコーストも支持していたため、クロアチア国内でセルビア人、ユダヤ人、ロマ(移動民族)、そして自分達に反対するクロアチア人やイスラム教徒のボスニア人に対しても苛烈な迫害を加え、絶滅収容所に送り込んで虐殺しています。

正確な数はわからないものの、ウスタシャにより虐殺された人々の数は、ユダヤ人 3 万人、ロマ 2 万 6 千 〜 2 万 9 千人、セルビア人に至っては 30 万 〜 35 万人にも及ぶと言われています。
さらに、この時代、セルビアのユーゴスラヴィア王国軍チェトニック分遣隊、イタリアの占領軍、ドイツ国防軍、SS 分隊などが旧ユーゴスラヴィア王国領の各地で大量殺戮を繰り広げ、第二次世界大戦後の民族闘争や報復行為につながる深い禍根を残しました。

パルチザンの台頭とユーゴスラヴィア連邦人民共和国の建国

パルチザンの台頭とクロアチア独立国の崩壊

上記の狂気に満ちた暴挙への反抗として立ち上がったのが、反ファシストの共産主義者の団体、パルチザン(正式名称は『ユーゴスラヴィア人民解放軍およびパルチザン部隊』)です。

ユーゴスラヴィア共産党の党員だったヨシップ・ブロズ・ティト率いるパルチザンは、1941 年、たった 40 名ちょっとでゲリラ的反対運動をするところから始まって、1944 年後半にはなんとその数 65 万人、52 師団、野戦軍 4 隊まで膨れ上がりました。

 
「ティトー」というのはニックネームで、実際の発音は「ティト」。
日本語では「チトー」という表記もあります。

若いときから社会運動に従事してきたティト。
「仲間の誰かが捕まって口を割らされたとしても、お互い本名を知らなければ捕まりにくい!」ということで、社会運動仲間は皆、偽名を使っていたそうです。
「ティト」というのはその偽名のうちの 1 つで、ティトの出身地ザゴリェでよくある名前なんだそうです。

参照:Vladimir Dedijer「Tito Speaks

ちなみに枢軸国の支配への対抗勢力としては、セルビアとモンテネグロを中心としたユーゴスラヴィア王国軍チェトニック分遣隊も存在しました。
しかしパルチザンが反ファシズムと多民族が平等な権利を持つ共産国家の樹立を目指していたのに対し、チェトニックの方は大セルビア主義にもとづくユーゴスラヴィア王国の再興とセルビア民族の安全の確保を目的としていたため、お互い仲が悪く、チェトニックは本来相容れないはずのウスタシャと組んででもパルチザンを叩き潰そうとしていたようです。

参照:Mihael Sobolevski「Uloga četnika u Nezavisnoj Državi Hrvatskoj

1943 年、パルチザンが枢軸国とウスタシャの支配から解放した地域で設立されたユーゴスラヴィア人民解放反ファシスト会議により、ティトを首相とするユーゴスラヴィア民主連邦の樹立が宣言されました。

 
クロアチアでは 1944 年に『クロアチア連邦国』が設立されましたが、憲法上ではユーゴスラヴィアとの関係は明確になっていませんでした。
 

そしてこの頃から形成は逆転し、パルチザン軍が枢軸国軍を追い立てる図式になっていきます。

また、形勢逆転は戦況にとどまらず、これまでの迫害行為の報復として、退却していくドイツ軍、クロアチア独立国軍、それらへの協力者(本人の意思かどうかは問わず)、パルチザンと敵対していたチェトニックなどの大量処刑も行われました。

ユーゴスラヴィア連邦人民共和国とクロアチア人民共和国の建国

1945 年、ユーゴスラヴィアで選挙が行われ、(投票用紙に名前が載っていた候補全員がユーゴスラヴィア人民戦線に属する人だったので当然)人民戦線が全議席を獲得。
この結果を受けて発足した憲法制定会議で王政が廃止され、ユーゴスラヴィア民主連邦として公式に国家認定を受ける土台が作られました。

 
イギリス、ロンドンに亡命政府を樹立していたペテル 2 世は退位を求められましたが決して同意せず、その後アメリカに移住してからもずっと「ユーゴスラヴィア王ペテル 2 世」を名乗り続けました。

 

ペテル 2 世アメリカで亡くなり、アメリカに埋葬された唯一のヨーロッパ君主となりました(※2013 年、息子のアレクサンダル 2 世の働きかけによりセルビアに改葬)。

アレクサンダル 2 世はイギリスで生まれ、アメリカに移住してから、2000 年にセルビアに帰還。
現在もベオグラードの旧王宮に住み、王政の復活(日本と同じような、君主が政治を左右する力を持たない立憲君主制)を目指した活動をしています。
ちなみにヨーロッパの王家は婚姻によって基本的に全部つながっているものなので、アレクサンダル 2 世とその子ども達は(遠いけど)イギリス王位継承権も有しています。

 

1946 年、ユーゴスラヴィア民主連邦はユーゴスラヴィア連邦人民共和国と名前を変え、クロアチアは『クロアチア人民共和国』としてその構成国の 1 つになりました。

濃い緑:ユーゴスラヴィア連邦人民共和国(後のユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国)
黄色:クロアチア人民共和国(後のクロアチア社会主義共和国)

この時、それまで数年間に渡ってファシスト政権による弾圧や戦争が続いてきたため、建国したばかりのクロアチア人民共和国は経済的に極端な困窮状態にあり、経済状態の回復が急務となっていました。

 
経済的な課題はクロアチアに限った話ではなく、ユーゴスラヴィア全域が同じように苦しい状態にありました。
ただ、いかんせんクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、モンテネグロは元『クロアチア独立国』領土にあたり、ここがウスタシャの暴虐とそれに続くパルチザンとの戦いの舞台となったため、特に壊滅的な打撃を受けていたのです。
※参照: Hrvoje Matković『Povijest Jugoslavije : (1918 – 1991 – 2003)
 

この苦しい状況をできる限り迅速に脱する必要があったものの、これにかかる資金も人材も不足していた政府は、建国からしばらくの間ボランティアによる労働力に頼る形を取ります。

 
この『ボランティア』は、その大部分が次のような人々で構成されていたようです。

1) 社会主義がもたらすよりよい未来をうたうプロパガンダに共鳴した元パルチザンや若者
2) 現政府への忠誠を示さないと処罰や迫害の対象になる可能性があった元反政府・反共産主義者やファシスト政権への協力者
3) 戦争捕虜

また、最も過酷な労働は 3) の戦争捕虜に割り当てられることが多かったそうです。

 

 なお、当時、クロアチア人民共和国を含むユーゴスラヴィア連邦人民共和国といわゆる西側の関係は良好とは言えない状態にありましたが、連合国救済復興機関(UNRRA)とアメリカの救済機関から支援を受けていました。
荒廃した国土で食糧もシェルターもなく、命(特に餓死)の危機が常に隣り合わせだった国民の命を支える上で、この支援は非常に大きな役割を果たしました。

クロアチア社会主義共和国の社会と制度

他のユーゴスラヴィア連邦人民共和国構成各国と同様、共産主義国となったクロアチアでは、私有財産や事業の没収と国営化が進められます。

これは、もともと財産を持っていなかった人にとっては好ましい変化だったものの、財産を接収される側の多くの人にとっては受け入れがたい変化でした。
加えて、1949 年からは農地に対する税金の徴収が始まったため、土地を無料で割り当ててもらったことで満足していた元農奴層も政府に対して反発するようになります。

さらに、この私有財産の接収と国営化を進めるために役人を大幅に増やす必要が出てきます。
この役人の増員により、高い教育を受けた層は給料のよい役人になるか、そうでなければよりよい生活を求めて国外に脱出することが増えました。
反面、教育水準の低い農業従事者はその社会的クラスから抜け出すことがより困難になり、結果として中流階級の層が薄くなり、社会の中の格差がどんどん拡大していきます。

 
クロアチアやスロヴェニアのワイン農家さんの話によると、農業の中央集権化で、これまでのようにワイン作りを自分達が最後までするのではなく、農家は決められた種類、決められた量のブドウを作ってそれを納める形に変更されたそうです。
そうやって各農家から集めたブドウでワインを大量生産するようになり、それまでのワイン造りの伝統が大きく損なわれてしまったらしい。

この時期に作られなくなって絶滅してしまい、今では文献にしか残っていない土着ブドウなどもけっこうあるんだそうですよ。

ただその一方で、「あの時代は、決められた量をちゃんと作ったら、仕事と関わりのない部分では好きなことをしてよかった。だから仕事としてのワイン作りとは別に、自分の家用のだけすごいこだわりまくって好きに作ってた。今は商売がかかってるからそういうこだわりを追求する余裕がない。当時はよかった」という人も、少数ながらいらっしゃいました。

 

産業面では、『5 年計画』の構想のもと、産業のアウトプットを 5 倍に、国の歳入を 1.8 倍に押し上げる取り組みが発動。
これは失業率の低下など一定の効果にはつながったものの、産業の近代化に必要な教育やトレーニングを受けた人材が不足していたため、当初の目的を達成することはできずに終わりました。

 
ユーゴスラヴィア連邦人民共和国は建国当初は、パルチザンの活動を支援していたソヴィエト社会主義協和国連邦(ソ連)の影響を強く受けた国作りをしていました。
しかし置かれた状況や目指すところの違いなどもあり、建国後 3 年ほどで早くも袂を分かち、別々の方向に進んでいくことになります。
 

ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国の建国と終焉

建国〜ティトイズムによる国作り

1963 年、ユーゴスラヴィア連邦人民共和国では憲法改正があり、国名をユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国に改名。
ティトは終身大統領になり、クロアチアも「クロアチア社会主義共和国」に改名されることが決まります。

このユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国では、「ティトイズム(ティトー主義)」に基づいた国作りが進められました。
ティトイズムには次のような特徴がありました。

  • 『ユーゴスラヴィア』というアイデンティティ
    • 連邦構成国それぞれの「自分は〜人」というアイデンティティの上位に「自分はユーゴスラヴ人」というアイデンティティがある
  • 労働者自主管理
    • 同じ社会主義国であるソ連がとった民主主義的中央集権主義(ものすごく単純化すると、「意思決定は上(=共産党)が行い、あとの皆は全員従う」という制度)とは違い、各セクションの労働者が意思決定を担う
  • ソ連からの決別
    • これは国の方針上、政治的な決別をすることだけでなく、ソ連に同調する(と思われた)人々に対して苛烈な迫害を加えることも意味した
  • 非同盟運動(Non-Aligned Movement、NAM)におけるリーダーシップの発揮
    • 非同盟運動 = 東西どちらの陣営にも与しない国際組織
    • 初代事務総長はティト
 
この時代、ソ連に同調する(と思われた)人や、政府に反対する人などは『クロアチアのアルカトラズ』などと呼ばれることもある監獄島、ゴリ島(ゴリ・オトック)に送り込まれ、『矯正』の名のもとに強制労働を強いられたり、拷問を受けたりしました。

ティトはファシズムから人々を解放した英雄でもあり、壊滅的な状態にあった経済や産業を迅速に一定レベルまで回復させることに成功し、外交面でもその手腕を発揮した稀有な人なので、国内でも国外でも高い評価を受けることが多いです。
しかし反面、苛烈な弾圧を反対勢力に加えたことも事実。

現地では今でも、この時に知り合いや家族を殺されたり壊されたりした経験を持つ人も多く、その辺りを知らずに「ティト=英雄」的な発言をする人に対し、苦々しい思いを抱く人もまた多いのです。

なお、リエカとザダルのちょうど真ん中あたりにあるゴリ島には今も当時の監獄がそのまま放置されていて、シーズン中は見学ツアーなども行われています。

 

民族間の緊張の高まり

1960 年代の終わり頃から、ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国内では政権に対する抗議行動などが頻発するようになります。

特に、世界中で若者が抗議行動を行った 1968 年には学生による大規模な行動が、セルビアのベオグラードを中心に発生。
ティト大統領はこれに対しある程度譲歩する姿勢を見せ、テレビのインタビューで「若者達の言っていることは正しい」という発言もしていますが、その裏ではリーダー格の学生を大学や共産党から追放したり、逮捕したりするという行動に出ました。

1970 年前後には、クロアチア社会主義共和国内で『クロアチアの春』と呼ばれる大規模な抗議活動が発生します。

この抗議活動は、初期にはユーゴスラヴィア中央政府のあったセルビアとクロアチアの間の経済的な不平等の是正を主目的としていたものの、その過程で「この経済格差は民族にもとづく差別の結果」という報道が多く行われるようになりました。
その影響もあって、もともと存在した民族間の対立意識や、ナショナリズム意識が急激に高まっていきます。

これらの抗議行動を受けて 1974 年に憲法改正が行われ、各構成国や、セルビアのいくつかの州に対しより大きな自治権が認められることになります。

 
この憲法改正は、自治権を得た側にとっては好ましい変化だったものの、セルビアの視点では「クロアチアに譲渡した結果権力とヴォイヴォディナ自治州やコソヴォ自治州を失った」という変化だったため、将来につながる禍根を残す結果となりました。
 

ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国の崩壊と独立戦争

民族間の感情が徐々に悪化する中、1980 年、国をまとめる要だったティトが亡くなり、ここまでティトの仲裁によってかろうじて維持されていた対立感情が一気に高まっていきます。

ティトに続き実権を握ろうとしたセルビアの共産党リーダー、スロボダン・ミロシェヴィッチは、コソヴォで起きたアルバニア系住民の抗議行動に対し『反官僚革命』と呼ばれる一連の改革を実施。
1974 年の改革で実現したコソヴォ・メトヒヤとヴォイヴォディナの自治権を大幅に制限しました。

しかしその反面、大統領府における両自治州の投票権は維持され、これにより、全部で 8 議席の大統領府の意思決定に必要な過半数、4 票をセルビアが意のままにできる状態が実現します。

 
コソヴォ問題は今でも解決しておらず、コソヴォが 2008 年に独立を宣言したあとも、コソヴォを独立国家として承認しない国々もまだ多い状態のままです。

 

なお、日本は 2008 年にコソヴォを国家として承認しています。

 

1990 年、ユーゴスラヴィア議会(ユーゴスラビア共産主義者同盟議会)で、一票の格差をなくす(=一番人口の多いセルビアが投票で常に勝てる)ことを主張するセルビアと、連邦構成各国や自治州の自治権を更に拡大することを求めるスロヴェニアが激突。
この結果、スロヴェニアとクロアチアが議会を去り、全連邦加盟国によって構成されるはずのユーゴスラビア共産主義者同盟は瓦解することとなりました。

一方、スロヴェニアとクロアチアでは独立を希望する声が大きくなっていきます。
しかし、クロアチア領内に住むセルビア系住民は、もしクロアチアが独立したらユーゴスラヴィア国民としての権利を失うことになるため、これに猛反発。

 
クロアチアとセルビアがそれぞれハプスブルク帝国とオスマン帝国に支配されていた時期、ハプスブルク帝国はオスマン帝国との前線にあたる広い地域を軍政国境地帯としていました。

 

そのさなかの 1538 年、神聖ローマ帝国の皇帝フェルディナンド 1 世がセルビアやボスニア・ヘルツェゴヴィナに住む人々に対し、軍隊に入ることと引き換えに、軍政国境地帯への移住と税金を免除を約束。
これを受けて、数百年にわたり、オスマン帝国の侵攻の度、セルビアやボスニア・ヘルツェゴヴィナからクロアチアを含む当時のハプスブルク帝国領内への大規模な移住の波が断続的に発生することになります。

この『セルビア人の大移動』と呼ばれる大規模な移住により、クロアチア領土内の一部に、セルビア系の住民が多く住む場所が数カ所できていました。

 

緊張が日に日に高まる中、セルビアとクロアチアの国境にまたがる元軍政国境地帯のクロアチア側で、セルビア系住民とクロアチア系住民の間で小規模な武力衝突と住民の移動が発生し始めます。

クロアチア独立戦争

1991 年 6 月 25 日、スロヴェニアとクロアチアがついにユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国からの独立を宣言。

 
スロヴェニアは『スロヴェニア共和国』、クロアチアは『クロアチア共和国』になりました

セルビアとの間にクロアチアが挟まっており、国内にほとんどセルビア系住民がいなかったため独立に反対する勢力が皆無に近く、地理的に西側諸国に近く交流も盛んだったスロヴェニアでは、独立戦争は『十日間戦争』の名の通り、短期間、かつあまり大きな被害を出さずに終わります。

そしてこれとは対照的に、クロアチアの方は、1991 年から 1995 年にわたる大規模な独立戦争を経験することになり、全土に渡る壊滅的な被害が出ることとなりました。

クロアチアの場合、セルビアと国境を接しているし、そもそも国境をどこに引くかという問題で長く押し問答を繰り返してきているし、両方とも過去にバルカン地域の大国だった過去もあるし、上述の通り、ハプスブルク家の統治時代にユーゴスラヴィアの他の地域からの移住が政治的に進められていてセルビア系住民が多い地域が多数存在するし、と、スロヴェニアとは置かれた状況や、そこまでの歴史が大きく異なります。

結果、クロアチアでは、スロヴェニアがそうだったように「国外から攻め込んでくる敵を国境で防衛する」といったシンプルな構図にはならず、国内のセルビア系住民の多い地域がセルビアの支援を受けて独立を宣言したり(後の『クライナ・セルビア人共和国』)、ユーゴスラヴィア軍がそこからクロアチアを侵攻したり、複雑かつ困難な、苦しい戦いが長く続くことになりました。

 
『クライナ・セルビア人共和国』の『クライナ』とは国境や境界線を意味する言葉です。
名前の由来は軍政国境地帯。

 

過去のキリスト教圏とイスラム教圏のぶつかり合いが、数百年の時を歴て、全く違う国々の間でのいさかいの種となり、多くの人の命が奪われることにつながったという、まさに争いと政治が(おそらく)意図せずに生み出した負の遺産だったのです。

 
クロアチア国内の軍政国境地帯にあたる部分と、後に生まれた非承認国家クライナ・セルビア人共和国を横並びで比較するとこうなります。

クロアチア独立戦争における主な被害は次の通りです。

  • 死者数:全体で 2 万人
    • クロアチアでの死者(※行方不明者含む) 1 万 2 千 〜 1 万 4 千人、うち半数近くが非軍属の市民の犠牲者
  • 難民となった人の数:50 万人
  • 経済的な損失:GDP の 20 〜 25%
    • 被害総額:3.5 〜 4.5 兆円

参照: Darko Zubrinić「The period of Croatia within ex-Yugoslavia

 
クロアチア独立戦争、および一連のユーゴスラヴィア紛争は、数多くの戦争犯罪が行われたことでも知られています。

 

ユーゴスラヴィアがクロアチアに対して行った戦争犯罪:
ヴコヴァルやバチンを始め複数の街や村での虐殺行為、世界遺産への攻撃(プリトヴィツェ湖群事件、ドゥブロヴニク包囲)、市民の強制収容、拷問、虐待など

クロアチアがユーゴスラヴィアに対して行った戦争犯罪:
ゴスピチュやシサクでの虐殺行為、市民の強制収容と虐待など

セルビア(※ボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国内のセルビア系国家『スルプスカ共和国』含む)がボスニア・ヘルツェゴヴィナ(の主にイスラム教徒のボシュニャク人)に対して行った戦争犯罪:
スレブレニツァなどでの虐殺行為、虐待、組織的強姦など

コソヴォでの戦争犯罪(対象、加害者はセルビア、アルバニア系住民、国連軍など様々):
ヴェリカ・クルシャやオラホヴァッツでの虐殺行為や虐待、組織的強姦など

参照: United Nations International Criminal Tribunal for the former Yugoslavia「Statute of the Tribunal

限定的な被害のみで独立を果たしたスロヴェニアを除き、元ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国構成国のほとんどは、現在もこの時の被害から立ち直ったとは言いがたい状態にあります。
国土も広く観光資源も多く、他の地域よりは早い段階で全面戦争が集結したクロアチアでも、郊外に出れば生々しい弾痕の残る廃墟を目にするのは決して珍しいことではありません。

戦後から現在

現在のクロアチア共和国

戦後のクロアチアは、次のような形で西側諸国との結びつきを強めています。

  • 1996 年
    • 欧州評議会(Council of Europe:人権、民主主義、法の支配の分野で国際社会の基準策定を主導するヨーロッパの国際機関)加盟
  • 2000 年
    • 北大西洋条約機構(NATO:集団防衛、危機管理、協調的安全保障を中核的任務とする北大西洋地域の国際機関)加盟
  • 2013 年
    • 欧州連合(EU:経済通貨同盟、共通外交・安全保障政策、警察・刑事司法協力など幅広い分野で協力し合う政治・経済統合体)加盟
    • 2023 年にユーロ圏通貨圏加入予定
    • 2024 年頃にシェンゲン圏加入予定(希望…加入条件をすべて満たしたと EU から承認されたのが 2021 年 12 月なので詳細が決まるのはこれから)

最新情報をチェックしよう!